Real Face

ギリギリでいつも生きていたいから

すみません

めっちゃ放置してしまった。
11/01に書いたので一ヶ月ちょっとぶりくらいになる。

でも、度々ブログのことは思い出していたし、このブログの依頼主(?)のブログの更新をたまに見に行ったりはしていた。

この一ヶ月の間、北海道に出張に行ってポスター発表をしたり、修論の中間発表をしたり、推しメンの握手会に行ったり、いろいろな人と話す機会があったりした。
その中で、本当に自分がやりたいことについて悩んだり、自分の視野が狭くなっていることを再確認したり、推しメンが卒業発表をしたり、自分のことを前向きに考える必要に駆られた出来事が多くあった。

 

お母さん、お父さん、それから僕の進学を反対してくれている数少ない貴重な皆さん、すみません。

僕は多分、博士後期課程進学をします。

それは多分、あと4年間学生でいることを意味します。(途中で逃げ出すこともできるけど。)

すごーくつらいこともあると思うし、すごーく楽しいこともあると思います。

最近、物事を楽しむ能力が自分には欠けていたなって思うことがあります。すみません。

だから、これから四年間、めちゃくちゃ遊んでやろうって思ってます。
遊べるようになった俺は最強だと思ってます。働いてないくせに偉そうですみません。

だから、楽しむために、つらいことがあったらもっと友達を頼って生きたい。
これまでは何か、鬱屈しているだけで、全然友達を友達扱いしていなかったかもしれない。すみません。

あと、アウトプットも苦手だと思ったから、このブログをもっと更新してみてもいいかも。

 

これからはもっといっぱい色々していきます。ぶっ飛んだ気持ちいいことをたくさんやっていきたいです。
葉っぱは吸いません。

株式

みんな、株って知ってる?

 

頭の良い若者ならみんな少しは考えたことのある、「株で儲けたい」「不労所得欲しい」だけど、実際にはそんなに簡単には行かないんだよね。

 

株っていうのは、企業がその資本金を扱う形態の一つである株式で用いられるもののことだよね。

 

お金を稼ぐ行為っていうのは、どれも労働やギャンブル、あるいは対価交換の枠組みで説明されると思っているんだけど、

例えば、

・時間

・リスク

・能力

・お金

なんかを色々と変換することでお金の循環が生まれていると思うんだ。

 

また、お金の貸し借りの問題もあるけれど、それはお金を貸すというリスク(その相手が信頼できるかどうか)を返済時のお金の利益と釣り合うかどうか考えたりして行われるわけ。

 

だから、お金を稼ぐ行為っていうのはどれもみんなそれなりに大変なんだ。

マンション経営にはマンション経営する元手が必要だし、

デイトレードには一日中パソコンに張り付いたり、システムトレードのプログラム構築やシステムの設計、信頼保証なんかをしないといけない。

株式の長期投資ももちろん元手が必要だし、

新規上場株はリスクが低い反面自分の持株は少なかったり、いつになるかわからなかったり、情報を常に調べていないといけないね。

ギャンブルは手軽だけど、リスクが大きいし、

起業なんかも勿論大変だ。

コツコツ働くのも良いけど、月曜日が来るのが憂鬱だったりするかもね。

自分の好きな仕事をしていたいけど、それでは生きていけないかもしれない。

 

だから、株で楽に稼ぐなんて不可能だと思います。

あなたは、時間とお金とリスクと自分の能力をよく考慮して、自分が本当に向いているのはどのような生き方なのかを考えないといけません。本当に自分は株で食っていけるのかを考えないといけません。本当に自分は不労所得を求めているのかを考えないといけません。

 

考えるのがめんどくさくなったら、新卒でサラリーマンをやっていれば良いのです。

別のことがしたくなったり、別の稼ぎ方がしたくなったり、別の価値観が欲しくなったりしたら、独立したり転職したりニートになったり、その時に考えれば良いと思うのです。

何をやるにしても、結局お金も時間もリスクもかかるのですから。

 

 

お前ら全員仕事辞めろ

子供

シングルマザーはマジですごいと思う。

 

 

僕は子供がそんなに欲しくない。

その理由は単純で、「子供の人生に責任を持てない」と思うからである。

 

子供のことが嫌いではないし、面倒を見るのも苦手じゃない。

どちらかと言うと子育てには結構興味があって、やりたいとすら思う。

でも、責任を取れない。

責任っていうのは、子供を作ってしまった後の自分の人生についてもだと思う。

 

子供が生まれたら、面倒を見ないといけない。

教育しないといけないし、養育しないといけない。

そのためにはお金も時間もたくさんかかるし、とても私的な活動であり、とても社会的な活動でもある。

 

自分の遺伝子を持つ他人が、どのような体験をし、どのような成長をし、どのような思考をするのか、それは面白くて仕方のないことだろう。

自分とどこが似ていてどこが似ていないのか、それを探ってゆくだけで一生の人生を捧げる価値があると思う。

また、当然、子育てをすべきであるという遺伝子が人間には刻まれているだろうから、本能レベルで満たされる行為なんじゃないかと思う。

 

でも、子供は一人の人間だ。自分ではない。

自分はどういう考えから子供を産み、育てようと、その子自身にはなんの関係もない。

お前は俺(とその愛する人)のエゴによって人生を左右されるんだぞ、と思いながら育てることの卑劣さは計り知れない。

 

例えば、俺は今23になり、ある程度自由に暮らさせていただいていると思うが、親が学費を払わなかったり、俺の部屋を燃やしたり、その他諸々の非協力的姿勢を見せてきたら俺は自分のこの先の人生を考え直すしかないだろう。

逆に、今まで親があったからこそ、今の自分の人生を選択している、つまり、親の存在が自分の人生の選択に大きく起因している。(親を利用する、利用しない、利用することができない、それぞれのどの選択も親に起因している。)

 

これは卑劣すぎる。けしからん。

 

子供が、俺のエゴを離れ、完全に自由に暮らすことは不可能である。俺が教育をするわけだし、そもそも「子供に俺のエゴを与えるべきでない」というのはもう俺のエゴである。本当はエゴエゴに教育した方がいいのかもしれない。

 

だから、俺はぜんっぜん子供の人生に責任を持てない。自分の人生の責任すら取れるかわからないのに、子供の面倒も見ないといけない生活が全く理解できない。怖すぎる。

子供が7歳くらいになってから、「やっぱり子供作らなければよかったなーw」とかなっても困るし、子供も困るのである。

 

 

その点、シングルマザーはすごい。

こないだ僕のおじいちゃんの娘が旅行先で出会った一人のシングルマザーは、結婚はする気が無かったから知り合いの優秀な雄の精子を貰って子供を作り、不労所得が既に潤沢にあり、その子供は強い大学にいるらしい。

どういうことなんだろうか?

 

お金と時間と、子育てに対する信念が桁違いすぎる。

どうしてそこまで本気で子育てを実現できるのだろうか?どうして子育てを実現しようと決意できるのだろうか?

お父さんはいないの?とか子供が言い出した時、どう答えるんだろう。

 

 

もし、人間が子供を作るのをやめてしまったら、人は生物として破綻してしまう。

あるいは、国民が子供を作るのをやめてしまったら、国は崩壊してしまう。

だから、国が「セックスしなさい」のは当たり前のことで、少なくとも経済的に正しい問題意識だと思う。だが、国民が少なくても国を存続することは可能であって、労働力の少ないなりに生産力を上げるとか、家庭の多様性を認めていくとか、いろいろな方法がある。

シングルマザーを支援したり、精子バンクとか、一夫多妻制を認めるとか、なんでもいいけど、国の政策(性作?精搾?)はいくらでも出せると思う。

でも、「生物は子供を作らなければならない!」とか「人間は文化的な家庭を築くべきだ!」とか、そういうエゴが邪魔をする。

 

僕はむしろそういう「こうあるべきだ論」を超越したところにある「こうでもいいんじゃね論」が楽しいと思う。

子供が作れなくてあたふたしているよりも、子供作れないからこそできる新たな価値観や人生の在り方みたいなものを見て見たい。

もちろん、その先でその人がシングルマザーになろうが幸せな家庭を築こうが、一生研究室で数学をしていようがそれは自由なのである。その人の人生に国は関係ないし、もしそういう人を排除したいのならそういう政策をとっていけばいいと思う。難しいけど。

 

国でも個人でも、エゴを押し通すというのは本当にカッコいいことだと思う。

それがあるから、成功できることがたくさんあると思う。

でも、「これはエゴだなー。」と思ってしまうと、押し通さないほうがいいんじゃないかと思って失敗することがたくさんあると思うから、人間や国は弱いな、って思う。

 

赤ちゃんが「僕は僕のエゴのままに生きていくから、父ちゃんは何も気にしなくていいんだぜ!オギャー!」って生まれてきてくれるなら、どんなに楽なことだろうか。

 

本当は子供を作って幸せな家庭を築くのが一番シンプルでよいことだと思ってるけど、それで自分の子供が幸せになってくれるだろうか?

いや、俺の子供がそんな単純な奴に生まれるわけがない。というエゴを持っている以上、まず俺が幸せに生きることが大変である。

本当はいつまでも子供のままでいたい。

数年前に小江戸へ行った話

「小さい江戸ってなんやねん。」って思ってたら大学から乗り換え一本で良い感じの風情ある街に行けることを知った。

 

そういえば、先週お祭りがあるとか風の噂で聞いていた気がする。

小江戸ではポケモンGOをやったりコエドビールを飲んだりした気がする。

 

そこでエッグバウムロールとかいう特殊な焼き方をしたバアムクーヘンを食ったことを覚えている。

安いのに、今まで食べたことのあるバアムクーヘンを凌駕するバターの匂いで、そういうリーズナブルな食べ物が俺の好物なんじゃないかな、って大学生ながらに思った気がする。

すごい高い食品とかを使っているわけじゃないのにすごい美味かったな。

 

そういえば最近カレーにハマってる。

カレーは誰が食っても美味しいものだと思っていたから、俺は別にカレーを好きだとは思っていなかったんだけど、インドカレーも日本のカレーも欧風カリーも好きで、もしかして俺はカレーが好きなんじゃないか?って思った気がする。

そういえば昔からオムライスも好きだったな。

お母さんがオムライスを作ってくれるときはいつも品数が少ないから食事がめんどくさいという感情が薄れて美味しかったな。

 

 

マツエク

「マツエク」は、この世界の大半のオタクの皆さんに最も関係のない単語の一つだろう。

 

どうやら、「まつ毛エクステ」という意味の言葉らしいが、ご存知だろうか?

 

「まつげをエクステンション」、拡張するらしい。僕みたいなオタクが知っているエクステンションは "extention of function"という関数の定義域を拡大することぐらいだが、どうやらそうではなくて、つまるところ、まつげを延長することらしい。

 

まつ毛は、眼球にゴミが入ることを防ぐ働きを持っており、長いほうがより広い範囲からの広いゴミを拾うことができる。また、それに加えて、まつ毛の長い女性は目が大きな印象を与えるが、人間が他人の顔から得る情報の多くが目であるから目の大きな女性は魅力的だとする説もある。

このように、まつげをエクステンションすることは近年美容的行為の一つとして広く行われている。

 

 

多くの人間が社会の一員であろうとしている。

社会には多くの基準となるような価値観が存在していて、それを如何に逸脱しないかによってその人の社会性が規定されている、と感じる。

例えば清潔感、あるいは「美容に気を使っている感」は社会的人間と非社会的人間(反社会的人間でないことに注意)を識別するために便利な指標である。

そして、そのような基準を保つことは極めて社会的で文明的な活動と言えるだろう。

 

人間は、男性と比べると化粧をしている女性の方が圧倒的に多い。これは、「女性は綺麗であるべき」「女性は綺麗でありたい」というような差別的とも捉えられる価値観から来る事実だと思う。

もしもそれが差別的であるか、本能的であるかはともかくとして、社会全体の通説であるなら、その価値観を“逸脱しない事”が社会で生きていく上で求められる。

 

これは、すごくつらい。

さっきも言ったように、「極めて社会的で文明的な活動をすること」は、時と場合、あるいはその人の人間性によってはすごくつらい。

このエントリを平日の10時頃に書いていることがまず一つアウトである。

 

「まつげをエクステンションすること」は、美容的行為として自分の尊厳を高め、自分の欲求を満たすことに加えて、社会的活動の一つでもある。さらに、どうやら「エクステンションオブまつげ」は効果に持続性があるらしく、その間のメイクアップというつらみを緩和する働きもあるらしい。しかも可愛くなるらしい。

これは、すごくすごい。

 

僕は、もしも女性が、社会に化粧を強いられているのであれば、それはとても悲しいことだと思っていた。(もちろん、そうじゃない女性がいることもわかっている)

それ以前に、僕や周りのオタクが、社会に「服を着ること」や「髪を整えること」、あとは「朝起きること」とかを強いられているというのはとても悲しいことだと思う。

本当はこのエントリだって夜中の3時くらいに書きたい。

 

だから、頑張って、(少なくとも僕自身が社会と関わりあう中で必要な)最低限の社会性だけをUNIQLOや無印で確保しているし、必要最低限な社会性をどれだけ小さくできるか(=どれだけ自由に生きられるか)ということを意識している。そのために「食事にかかる時間」に投資したり、「朝の支度にかかる時間」に投資したり。この話は何度も書いている。

 

つまるところ、少なくとも僕よりは社会と厳しく関わっているであろう女性らのつらみ(社会性を確保すること)を簡単にする方法があれば良いことだなあ、と思っていた。

「メイクにかかる時間」を買ってあげたい!

 

そうしたら、どうやら、まつげエクステンションにはそう言った側面があるようだ。

これには感動した。美容のためだけじゃなくて、自分のため、そして自分の時間のために行う(継続的効果のある)美容的行為が存在するんだね。これは良いことだなあ、と思った。

 

整形やその他にも、もしかしたら似たような部分もあるのかもしれないと思って、価値観が広がって良かった。

凝り固まった価値観を、あんまりエクステンションできなかったら悲しいことだね。

 

数年前に金沢へ行った話

金沢旅行に行ったことがある。

大学生の時で、たぶん二年の終わり頃とかだったと思う。

北陸新幹線に乗りたい!」って言い出した友達がいて、「まあ良いけど」って言って男三人で行った気がする。

 

大学生の旅行らしいと言えばそれまでなのだけど、金沢旅行の目的が「北陸新幹線に乗ること」と「美味い寿司を食うこと」だったので、着く頃にはもうほとんど満足してしまった。(スケジュールに欠陥がある。)

ホテルも取ってなくて、とりあえずブラブラして、回転寿司屋を見つけて「夜飯はここにしよう」と言って、ネカフェを探しに行った記憶がある。

 

寿司は、回転寿司のくせにめちゃくちゃ高くて、100円の「わさびなす」から700円くらいの「のどぐろ」とかまでめちゃいろいろあった。

僕ら大学生は、言い出しっぺを除いてあんまりお金が無かったから、高いお寿司を一皿頼んで分けたり、安いメニューの質の高さに感動したりして楽しんだ。

 

夜は結局ネカフェに泊まって、一人は寝ていたけど、もう一人と漫画を読破してしまってせっかくの旅行なのに寝不足だったりした。

朝叩き起こされて、向かいのホテルの最上階の温泉に入ったりした気がする。実質貸切で、受付のおばさんに変な顔で笑顔の接客を受けたりした。それはもう最高の風呂だった。

その後は兼六園に行ったり、有名なメロンパンを食ったり、とにかくブラブラしていた気がする。

 

大学生の頃(去年まで)とにかくそのような下らない時間を過ごしてばかりいた気がする。

もっと時間を有意義に使うべきだったという気持ちは勿論あるけれど、下らない時間こそが本当に楽しかったように思う。

もっと堅実に生きていてもどこかで突っかかってしまうだろうし、もっと堕落して生きていてもどこかで突っ伏していたと思う。

昔の下らない時間のおかげで下らない人生をこれからも満足に送って行けそうな気がする。

また何か下らない思い出を書く機会があったら書きたい。

 

病気

みなさん病気にかかったことってありますか?

 

病気ってつらいですよね~!

僕は昔身体があんまり強くなくて、毎年インフルエンザにかかったりしていました。

昔の一過性の病気を思い返すと、「あのときは大変だったなぁ~!」なんて思うだけで、「もう頭痛くなりたくない!」くらいにしか思わないわけですけど、世の中には慢性的・先天的な病気で苦しんでいる人もたくさんいます。

 

昔にただ高熱が出ただけって思うと、今は何ともなくピンピンしていて問題ありません。じゃあ、明日急に高熱を出して寝込んでしまったら?きっとすごく嫌な気持ちになってしまうと思います。

 

もし、僕が生まれたときから右足が無かったら、きっとそれはそれはつらい人生で、未来のことも過去のこともあまり考えたくないでしょう。

慢性的な、ずーっとつらい症状で苦しんでる人は、後から思い返してもつらい人生だったって思うかもしれません。目が見えていればもっと幸せな生活だったのに。って思うかもしれません。

今、慢性的な病気と一過性の病気を比較するっていう、あんまり意味のないことをやりたいわけですが、一過性の病気はこの先どこかでかかったらとてもつらい思いをします。でも過ぎてしまえば大したことありません。慢性的な病気はずーっとつらい思いかもしれませんが、これから先も続くので、(悪化しないのであれば)心構えができているものになるわけです。

 

だから、慢性的な病気の人は、それが自分なんだと思って、自分の将来設計をしていけばいいと思うわけです。

「お前は何の病気も無いくせに何を偉そうなことを言ってるんだ」

そう思われるかもしれませんけど、僕はそれが合理的な考えだと思ってしまうわけです。

 

病気って言ったら言い過ぎですけど、人にはたくさんの個性があります。

落ち着きがないとか、体力がないとか、すぐに悩んでしまうとか、

そういうのって、必ずどこかにメリットとデメリットがあると思うんですよね。

 

僕は細見の長身イケメンに憧れてよく太い太ももを睨みつけていました。

あと、余計なことばかり考えてしまって決断力が鈍いです。今日の朝ごはんもまだ決まっていません。

でも、時間をたくさん使ったけど、そうやって物事を深く深く考え続けたおかげで、人生の中で今まで大きな失敗をしてきたことはないし、思考力が身に付いたと思います。

思考力は僕の人生においてとても大切なものになりつつあります。思考力が僕を規定していると言ってもいい。そうすると、太くて筋肉質な太ももは脳のエネルギー源を蓄える場所として機能します。

そう思うと、なんだか自分の人生に肯定的になれそうです。

また、朝ごはんが決められないというような決断力の鈍さは、解決する方法がたくさんあります。例えば、毎朝同じものを食べるのが楽で良さそうですね。毎朝食べるべき食事の選択肢もたくさんありますけど、僕は完全食COMPに課金しました。

(別にステマ記事ではないので詳細は載せません。僕のフォロワーは知ってるだろう。)

そうやって、自分のダメなところ、生きづらいところにはガンガン課金をしていけばいいのです。多くの人間は生きるために生きているのですから、生きにくいことがあればそれを解決するためにお金を使っていいのです。

生きにくくなくなればまたお金を稼ぎやすくなるのです。

 

だから、僕は時間を買うための課金を惜しみなくします。

ゲームでも、時間とお金の価値を鑑みて、よく課金してしまいます。

一番わかりやすいのは「広告解除アイテム」です。

広告を30秒見れば一定時間ブーストがかかります、と言ったときに、そのブーストがゲームのシステム上かなり大切な仕様であることが多々あります。毎回30秒観ないとゲーム進まない、あるいはテンポが悪くなる、みたいな。

もちろん、広告に頼っているゲームが良いとは限らないのですが、中にはかなりよく作られたゲームもあって、この広告さえ無ければ…!と思ってしまうことも多々あるわけです。

そして課金ショップを除くと、120円,360円,480円くらいで大体広告解除が売っています。

 

今、時給をx(円/時間)と置きます。広告の再生時間は30(秒)ですからその30秒で自分が稼ぎ得るお金はx/120です。ここで、ゲームプレイにあたり広告の視聴回数をnとおくと、nx/120ですから、nx/120円、自分は広告解除を買うことでお金を得ることができます。

したがって、nx/120>120,360,480を整理すると、

nx>14400,43200,57600

となり、(時給)×(見る回数)が14400円よりも大きくなれば120円の広告解除を買う価値はあります。

もちろん、プレイ中の煩わしさ、プレイしにくさを減らすためでも価値はありますから、それ以上に買うべきでしょう。

 

このように、課金アイテムの中には、合理的に生きやすさを得ることのできるアイテムや、時間を買うことのできるアイテムが多数存在します。

また、少し現実の話をすれば、ポイントカードを発行すれば1%のポイントが付くといったときに、それにどのくらいの価値があるのか考えるでしょう。

その1%の還元と、そのポイントカードを持ち歩く生きにくさ。どちらが大切かは、当然人によると思います。でも、もしすごーくお金を稼げるようになったら、1%の還元なんて気にしないで生きていけそうな気がしますよね。

僕は生きやすく生きやすく課金をしたいから、1%の還元率を"課金"することで「ポイントカードを持ち歩かない」を買っています。

 

人生において結構そういう小さな課金をいっぱいしてしまっていると思うし、持っておくと役に立つかもしれない煩わしいポイントカードはたくさん捨ててきてしまった気がする。でも前しか向かないで生きていきたいと思っています。

 

このブログ記事を書くのに30分くらい使ってしまったけど、「一過性の病気にかかってしまって大変だった」と思うことにします。