Real Face

ギリギリでいつも生きていたいから

ゲーム

ゲームをしてると性格が出るという話は確かにあるけれど、俺はむしろゲームによって性格がつくられた人間だと思う

 

人間は誰しも大なり小なり負けず嫌いな部分があると思うけど、うちの家系はそれが色濃く(血濃く)出ているような気がする

人によっては、日常の中で戦うことを放棄したり、戦い抜いて疲れてしまったり、自分が死に物狂いで戦ってきたことを年老いるまで気づかなかったり、戦いに付き添わされて疲れてしまったり、やっと自分の戦う場所を見つけることができたり、今も果敢に戦っていたり、する。

「負けず嫌いだから戦わない」という個性は面白いと思っていて、自分もそういう側面があると思う。

また、「負けず嫌いだから一番になりたい」というのはシンプルだが、うちの家系はみんなそんな卓越したものが無く、「一番になりたいから一番になれる土俵を探す」というようなことを頑張っている気がする。

その妥協の仕方は人それぞれだと思うけど。

 

かく言う自分も負けず嫌いで、一番になりたくて、完璧主義的である。

もちろん、人生において一番(つまり夢)を目指して頑張り続けることは一部の狂人以外には無理なんだけど。

少なくともゲームでもそう。

 

自分が最近やるようになったゲームは麻雀で、麻雀は四人で戦うゲームだ。(関西に行って三人麻雀でボコボコにされた話はここでは考えない)

あなたは普段から誰かと戦っているだろうか?俺はここ数年、いや、十年程戦った記憶がなかった。

だから、家族に強制されてやった麻雀(もちろん“プライド”がかかった全力の麻雀)で負けたとき、久しぶりに人生の中で負けたとき、本気で悔しくて眠れなかった。

風呂でその日の対局を振り返って反省し、あーでもないこーでもないと悩んだ。

悩んでも仕方がないし、どれだけ“プライド”がかかってても所詮ゲームなのにね。

 

麻雀は(つまりゲームは)、いわば突発的に人生の中に現れる小さな戦いである。

こんなものの勝ち負けは、何にも関係がない。(だからこそ楽しもうというのも大切な考えだけど。)

でも、俺は、そういう些細な対戦型ゲームをやるときに、「自分は上手くやった」と思えるような立ち回りをしていたいだろうと思う。全力でやるのは疲れるし時間もかかるから、あんまりやらないけど。

 

あと、特に自分自身がやりたいこともないから、好きなようにキャンプ場を彩ったりもできない。期間限定のイベントを完走することと実績を解除することにしか能(脳)がないから、一度ライブラリーを埋めれないことが判明したり、冷めたり、イベントをポカしたりすると萎えるから、ソシャゲもあんまり楽しめない。

 

もう少し大きなゲームの勝ち負けとしたら、ネットゲームのランキングとか、中学校の部活とかがある。

俺は、ネットゲームをするときに大概マイナーで癖の強いキャラクター(職業、役割、など)ばかり選んでプレイする。そのほうが格好良いと思っていたからだ。

でも、実際は、マイナーなほうがライバルが少なくて一番に近いと思っていたからかもしれない。

でも、俺がどこまで深いところでそれをしこう(思考、試行、指向、嗜好)していたかはわからない。

でも、実際は他のキャラクターでも強いプレイヤーや、現実でお金を持っている人や、他のゲームでも強い人が強いに決まっている。

 

中学の部活もそう。矢をたった四本だけ的に当てるスポーツを選んだ。

でも、実際は基礎体力や筋力、集中力、努力を怠らなかった人が勝つ。

弓道には型のようなものがあって、その通りにやれば的に当たると言われている。謂わば理論のようなものだ。

でも、中学校の部活にそんなものなんて関係ない。型がいくらめちゃくちゃだろうととにかく的に四本当てれば優勝なのだ。目一杯狙いを定めてめちゃくちゃな型でも“運良く”当てれば良い。どうせ、そうしたところでなにも問題はない、中学のただの部活だ。

でも、俺にはそれはできない。負けず嫌いなくせに、勝ちに貪欲になることはできない中途半端な人間。もちろん、日々の練習も熱心にやったりするわけではない。

 

昔は、中学の友達と毎日のようにゲームをして戦っていた。その頃、負けることもあったけど、自分はそこそこ強かったし、悔しいと感じたことはなかった。

このようなところで本気で戦っても何の意味もないし、一番になるわけでもないと思っていた。

 

中学のテストなんかでも、「勉強しないでこの順位なら御の字だ」とか、「一度だけ5科目で1位を穫ったからもう満足だ」とか、そういう逃げ道ばかり用意していた。

勉強しなくてそこそこ点数の取れる数学は嫌いじゃなかった。

そんな理由で高校、大学と理系を進んできて、今は誰にも負けたくないと思いながら自分と戦っている。

人生において一番などないから、自分に勝つことが一番大切である、例えば「一番じゃなくても満足する」とか。

 

最近、将来について悩んでいたら、「楽しいことをやりなよ。」と言われた。

現実をとるかとらないか(つまり、挑戦するかしないか)、これが基本的な人生、ゲームの選択だと思う。

僕は現実をとるような生き方をしたくなかった。面白くないから。それなのに、負けず嫌いだから挑戦して失敗することはできない。そのうち、挑戦したいことは特になくなってしまった。

だから「自分らしさ」は持っているけれど、「自分の道」はなにも見えなかった。

 

でも、最近やっと自分のやりたいこと、挑戦したいことがわかってきたような気がする。

僕はこのゲームに挑戦したいし、負けたくない、でも負けても楽しいから良いような気がする。

 

僕はちょうどネットゲームやインターネットが流行りに流行った世代で、個性である「完璧主義」と「ネットの広さ」が打ち消しあって思春期の早々に無になってしまった。

今の若者は最初からそれを分かっていて戦ったり戦わなかったりするんだから強いし、賢明だと思う。

俺は思春期にはもう無になってしまった。

 

ゲームとネットによってこの性格が作られたかもしれない。だからもうゲームをやっていないけど、ゲームをやればめちゃくちゃ楽しい。

人と競い合うのは避けていたけど、やっぱりめちゃくちゃ楽しい。

だって主観的な評価(つまり、自分の道)なんて自分の中に無いんだから。

 

 

 

結局、どんなテーマでも、昼に書いても夜に書いても自分語りをしてしまう

つまり、主観的な評価で満足することのできない強い(または弱い)人間は、自分を受け入れてくれる誰かを見つけることだけが、人生で唯一の負けない方法なんだろうと思う

服装

また難しいテーマ。

 

服装は、とても文化的な概念だ。
服装にはいくつかの側面があって、身分を現したり、機能的であったり、趣味にもあり、恋愛の道具でもあり、個性の顕れでもある。

スーツを着ていればおおよその社会性が担保されるし、コートが無ければ冬場は寒い。
デートには好みの格好をしていきたいし、奇抜な服装はアートでありブランディングでありアクションである。

 

僕はあまりオシャレに関心がない。(何にでも関心ないじゃんとか言わないで)

 

結局のところ、オシャレは自分に対して作用させる行為である。

オシャレをする人は少なからず自分への評価を考えていて、それは他人からの評価であることが多いけど、自分から自分への評価ということもある。

 

外見がみすぼらしければ、みずぼらしいという評価を受けざるを得ないだろう。
外見が魅力的であれば、魅力的であるとされるだろう。

服装が外見のすべてではないことはわかるが、外見以外のために服装を変える人はあまりいないと思う。(内面も変わる、と言う人もいるが、それは内面を変えるために外見を変えているのでは無いか、、。)

結局のところ、外見を変えるために人間は着飾り、自分らしくあろうとしたり、他人に拒絶されない自分でいようとしたり、他人から愛される自分でいようとしたり、するのだと思う。

 

恋愛が命であれば異性(恋愛対象の意)に好かれるような服装をすれば良いし、サラリーマンであれば営業先に好感を持たれるネクタイをすることも良いだろう。それは他人からの評価のための服装だ。

あるいは、ウォーキング中にはそれ用のウェアを着てるだろうし、靴も変える。機能のために服装を選ぶことも多々あるだろう。

でもそんな中でネクタイの裏地に刺繍を入れてみたり、自分の好きなブランド物を付けてみたり、気分の上がるスニーカーを履いてみたり、少しオシャレにすることは自分のためのオシャレであって、自分らしく生きるための一つの方法であると思う。

そういうものを繰り返して、例えば自分を着飾ることを楽しく思えばたくさんの洋服を買うだろうし、特にこだわりが無ければ、決まった服ばかりを着るということもあるだろう。

 

Facebook CEOのマークザッカーバーグは毎日同じシャツを着ていた。

それは、「服選びにかける時間が無駄だ」と言う。

オバマ前大統領は毎日同じスーツだ。

それは、「服選びに使うエネルギーが勿体ない」「もっとエネルギーを使うべき選択がある」と言う。

それは素晴らしいことだと思う。

彼らは、着飾る必要のないところで生きている。

 

服装を選ぶことによって外見と他人からの評価を決める、あるいは自分をアゲる、それが服装の役割だと思うし、それが人間の文化的な生活で、一般的な考えだと思う。

可愛い服があれば着たいと思うし、好きな人に見てほしいと思うのは自分や他人からの自分への評価を求めているに違いないだろう。

あるいは、自分に似合った無難な服装を買うことも、他人からの自分の評価を下げないことや自分らしさを保つことであると思う。

そこに、逆方向の服装の役割があると思っていて、どんどん新しい道を切り開いていくための服装選びと、どんどん自分の道を突き進むための服装選び(もはや選ばない)があると思う。

一般的な人間は、この二つを行ったり来たりしながら、無難に過ごしていくと思うけれど、中にはすぐに答えを見つけて徹底できる人がいる。

 

僕はこれからどういう進路を辿るかわからないけど、例え研究室に引きこもって数学ばかりするようになったとしても、もう寝癖を直さずにはいられないと思うし、外に出るならちゃんと身支度をしないとなんだかやる気が出ないと思う。

あまり派手な服装をするつもりもないが、同じ服ばかり着るのもつまらないと思う。そこまで評価を求めていないから特に買ったりしないけど、どうせならカッコいい服が着たい。

でも、この文章は、自分らしくあるために全裸で書いた。

恋愛

気付いたらブログの債務がたまっていた。
頑張ってサクサク書きたいけど、難しいテーマなので困る。

恋愛は難しい。
それは、相反する理性と感情という二つのもののせいだと思う(性だけに)。

生物の目的が子孫繁栄だとするなら、恋愛をしてセックスをして子供をつくることはまさに人生の全うである。
じゃあ「人間はセックスのために生きているのか?」と言われると、馬鹿な貴方は「そうではない。人間は理性的な生き物であり、健全な付き合いを…」と答えるかもしれない。

人間は生き物の中でも高度に発達した知能を持っていて、それは生物の根源である子孫の繁栄を脅かす程なのか、はたまた、多様化しすぎた個である我らがそれぞれに種の保存を行おうとする結果なのか、それはわからないが、性愛のないことは、少なくとも生物としては間違っている。

ともかく、人間の知性は、社会において結婚というsolutionを見出した。
これはとても合理的のように思われ、現代社会において広く推奨される恋愛の形だ。
結婚は、紛れもなく大半の人間における幸せの形であるから、大半の人間はそれを目指すことが自然であるし、人間は馬鹿だから、大体、結婚すれば満足に死んでいく。
結婚に至らなかった恋愛がどうであれ、擬似的、あるいは部分的にでも恋愛には(大半の)人生のゴールと同じような側面があるだろう。

だから、恋愛はすべきであるし、楽しいものだし、幸せなものである。
もっと単純に、セックスは気持ちの良いものであるように生物は創られているから、恋愛すべきである。

終わり。

 


誰しもにとって、それで終わりであってほしい。そうすればもっと社会は簡単だっただろう。
しかし、多様化した社会は性を消費する方向にも知性と合理化が働いた。
その結果、単純な形で恋愛や結婚を成そうとする人は減った。
あるいは、恋愛以外にも人間を満たすもの(仕事、娯楽、芸術、なんでもよい)もたくさん増えた。
当然、恋愛観も多様化し、
・結婚も恋愛もしたい
・結婚はしたいけど恋愛はしたくない
・結婚はしたくないけど恋愛はしたい
・結婚も恋愛もしたくない
みたいな分かれ方があるし、それぞれに個々人の条件も付いていることだろう。
僕は例えば三番目、あるいは四番目だ。

その理由を端的に説明すれば、やりたいことがたくさんあるから時間が大切で、性欲があるのはその次だから恋愛はしたくない(あるいは条件付きでしたい)。
また結婚は大変だから、まだまだ自由でない自分を想像できないし、自分は責任感がないので子供も欲しくない(子育てはしても良いかも)。

僕の話を長々とするつもりはないけど、誰だって様々な恋愛観があるだろう。僕もそう。

だから、常に恋愛していないと堪らない人とか、セックスが最も大切な人とか、若さを使ってチヤホヤされるべきだと思う人とか、互いの時間を思い合って恋愛したい人とか、とにかく結婚したい人とか、たくさんの人がいるんだと思う。

こうなってくると、「価値観の違い」「多様化した社会」という一言で片づけられちゃうかもしれないけど、それに加えて、恋愛が人生の大半を占めるということが、大事なことなんじゃないかと思う。

人生の大きなゴールであり、三代欲求の一つでもある恋愛は、もっと尊重されながら行われるべきだと思う。
それが本当に人間らしい、理性的な恋愛ではないだろうか?

終わり。


誰しもがそうであってくれれば本当に終わりでいいんだが、子孫繁栄に価値を見いだせない人間が一定数増えてきており、そいつらこそが生物としての本当に終わりである。人間の進化の向かう先は無生物なのでは?

物欲

このブログを再開したのは小さい訳に依るんだけど、その理由のせいで、記事のテーマが少し束縛されている。
今まで定められたテーマに沿って記事を書くことが無かったから、こういう風に強制されて書くのも結構面白いと思いつつ書いている。

今回のテーマは正確には物欲ではないのだが、正確に書くことが難しいので物欲について書けばまあ良いんじゃないかと思って書いている。

 

僕はたぶん、あまり欲求のない人間だ。
人間の三代欲求は生命維持のための機能だから一旦置いておくとしても、たぶん、その他の欲求は特に、あまり無いと思う。
物欲が生命維持に必要な機能かと言われると難しいが、どちらかと言うと、知性や人間らしさから発現している欲求な気がする。

“物”はいくらあっても困らない。
「いやいや、物だらけだと困るよ」、部屋がいっぱいになる、インベントリがいっぱいになる、とか、言うけれど、物を入れる物があれば困らない。
詰まるところ、「備えあれば憂いなし」はお金という強力なシステムによって実現され、資本主義社会となった。

人間はお金があれば物が手に入るし、生きていくことができる。

だから、金もいくらあっても困らない。(「裕福は毒だ」とかいう精神論は知らん。)

 

確かに、お金が必要ないという人はいないだろうし、お金は僕も欲しい。

でも、そのお金で何をしたらいいのかよくわからない。

確かに、欲しいものはあるんだけど、新しいパソコンとか、新しいベッドとか、新しい椅子とか、新しいスマホとか…。そういうものばかりである。

その新しい“物”で何するかって言われたら、仕事したり、作業したり、寝たり、である。

生きやすくするための道具を手に入れるために生きていたら、何だかよくわからないし、お金を稼ぐためにお金を稼いでいたら、何だかよくわからない。

たぶん、お金を稼ぐ意味を見出さなければいけないんだと思う、自分は音楽をやるから“物”が欲しくて働くとか、自分は家族に幸せになってほしいから“物”をあげたくて働くとか。

確かに、僕は貧乏ではない暮らしをしてきて、裕福が毒となって視野が狭くなっているのかもしれない。でも、生活もままならないような人の、生活をするための「“物”が欲しい」という物欲は生命維持のための欲求だし、僕がベッドを欲しい理由と似ているものだと思う。

結局、最低限の生活ができた上で人は自分のただの趣味としてどんな物を欲するのだろうか?

 

僕は決して人生を楽しんでいないわけではないんだけど、自分の知らない楽しいことはいくらでもあると思っていて、それには必ずしもお金がかかるわけでもない。

旅行も散歩も、数学も音楽も、映画も漫画も、なんだって楽しいと思う。

僕はたぶん“今”だけを生きることが得意で、お金があろうとなかろうとその時々で楽しめる最善手を探してきたし、他の道を選択して後悔しないような楽しみ方をしてきたずるい人間だ。だから、過去の選択のせいでできなかった未来の選択を悔んだりしないし、何年も続けていればだんだん楽しくなってくるようなことに時間とお金を投資する度胸がない。人生は人それぞれだし、結局どう頑張ってもそれなりの形で終わる気がする。(自分はやはり冷めているけれど、こういうところがとても人間らしく思ってもらえると思う。)

たぶん、普通の人はそこで自分の本能や直感とか、好みとか感情を信じて長期的な趣味に邁進できるんだと思う。

無限のお金が手に入るわけではないのと同じように、すべての楽しみが享受できる無限の時間が手に入るわけでもないんだから、必死に頑張って楽しんだってしょうがない、人生における究極の一手は存在しない、と思っているのかもしれない。

 

ゲームだったら、クッキーを作る機械をつくるためにクッキーを作ったりしていれば称号や実績が開放されるけれど、人生だったら、誰が「クリアおめでとう!」と言ってくれるんだろうか?

「欲しい物はいくらでもある」というよりも「全ての物を手に入れたい」けれど、人生において全ての物は手に入らないので別に何も要らなくなってしまった。

 

何かを強制されたり何かに束縛されたりしないと、人は何もできないのかもしれないと思うし、僕は今、どんな物よりも自由を欲しているけれど、自由を手に入れないほうが良いのかもしれない。

僕の物欲も、しぶしぶ強くしていかないとダメかも。

 

継続

「継続は力なり。」とは本当によく言ったもので、継続していくことは力であるし、力になっていくとも思う。

というか、“継続する”ということにとてつもないエネルギーを必要とすることをみなさんは薄々感じていることだろう(特に、このブログを読んでいるようなみなさんは)。

実際に、僕が継続できたことをこの拙い23年間の中で振り返ってみると、

・中学校の部活(2年半)

・急に習い始めたピアノ(小6から三年間)

メイプルストーリー(小5から大学まで断続的に)

・彼女のメンタルケア

・おじいちゃんとの散歩(4日)

ぐらいしか思いつかない。僕は継続の才能がない。

 

小さい頃から習い事を続けているとか、毎朝早起きするとか。小さいことでも大きいことでも継続できることは大切で、それが「私は継続力があります」というアピールであり証拠であり自信になるし、ルーティンワークになり、自分の生活のリズムとペースをつくっていくことにも繋がる。

自分の生活のリズムを持つことは、概日リズム(体内時計)をもつ生き物である我々人間にとって悪いことであるはずがないし、おおよその人間は朝起きて夜寝るルーティンで生きるように遺伝子に組み込まれているはずである。実際に、自律神経の整調などを促しているとの調査結果が知られているが、まあ、直感的にもそうなんだろう、という気がする。

だけど、継続は難しい。

単純に、苦労することをやりたいと思う人は少数派で、だからみんな、筋トレを2日でやめてしまったりする。

今、人間の進化とはたぶん比べ物にならないくらいの速さで文明が発達してしまって、人間がパソコンに適応する前に社会がパソコンに適応してしまった。だから、残業とか、ネットサーフィンとか、ブログを書くとか、そういう、苦労のない“不自然な”脳の興奮をさせているうちに古来の生活では考えられないような“不自然な”夜更かしが多発していると思う。だから、早寝早起きも難しいものになってしまった。

睡眠欲にスマホ欲が勝っちゃうみたいな。 

 

これは全然関係ない話だけど、概日リズムが思い浮かばなくて概周期関数しか出てこなかった。これは数学を継続して生きてきた弊害かもしれない。

 

というわけで、僕は継続していることもなければ、ルーティンワークも何もない。だから、睡眠リズムもバラバラで日中だるいことが多いし、自律神経も失調していることが多いような感じがする。

そうなると、こうやってまた夜中に物思いに耽って、どんどんどんどん、自分を追い込む悪循環である。

幸か不幸か、この物思いに耽る性格が活かされるような職業も無くはなくて、それは僕の本質的な人生観とも、かなりマッチしているように思う。だからこそ、幸か不幸か、現在のところは前を向いてしまっている。

自分の人生観や将来設計について今回触れることはしないけれど、何も継続せずに自律神経を破壊することで得られた自分の考え方や自分の個性、社会不適合性があると思っているし、また、社会に適合することが幸せじゃないとは思っていないけど、社会に適合しないことも不幸じゃないと思っている。

だから、何も継続せずに社会不適合者の道を進んで行くことを選んでみたいと思うし、一方で、これからも物思いに耽って深夜に悩むことを“継続”して行きたいと思う。

 

毎朝早く起きることなんかを継続していたら、それこそ社会への係属で、僕はそんなの全然つまらないと思う。