Real Face

ギリギリでいつも生きていたいから

物欲

このブログを再開したのは小さい訳に依るんだけど、その理由のせいで、記事のテーマが少し束縛されている。
今まで定められたテーマに沿って記事を書くことが無かったから、こういう風に強制されて書くのも結構面白いと思いつつ書いている。

今回のテーマは正確には物欲ではないのだが、正確に書くことが難しいので物欲について書けばまあ良いんじゃないかと思って書いている。

 

僕はたぶん、あまり欲求のない人間だ。
人間の三代欲求は生命維持のための機能だから一旦置いておくとしても、たぶん、その他の欲求は特に、あまり無いと思う。
物欲が生命維持に必要な機能かと言われると難しいが、どちらかと言うと、知性や人間らしさから発現している欲求な気がする。

“物”はいくらあっても困らない。
「いやいや、物だらけだと困るよ」、部屋がいっぱいになる、インベントリがいっぱいになる、とか、言うけれど、物を入れる物があれば困らない。
詰まるところ、「備えあれば憂いなし」はお金という強力なシステムによって実現され、資本主義社会となった。

人間はお金があれば物が手に入るし、生きていくことができる。

だから、金もいくらあっても困らない。(「裕福は毒だ」とかいう精神論は知らん。)

 

確かに、お金が必要ないという人はいないだろうし、お金は僕も欲しい。

でも、そのお金で何をしたらいいのかよくわからない。

確かに、欲しいものはあるんだけど、新しいパソコンとか、新しいベッドとか、新しい椅子とか、新しいスマホとか…。そういうものばかりである。

その新しい“物”で何するかって言われたら、仕事したり、作業したり、寝たり、である。

生きやすくするための道具を手に入れるために生きていたら、何だかよくわからないし、お金を稼ぐためにお金を稼いでいたら、何だかよくわからない。

たぶん、お金を稼ぐ意味を見出さなければいけないんだと思う、自分は音楽をやるから“物”が欲しくて働くとか、自分は家族に幸せになってほしいから“物”をあげたくて働くとか。

確かに、僕は貧乏ではない暮らしをしてきて、裕福が毒となって視野が狭くなっているのかもしれない。でも、生活もままならないような人の、生活をするための「“物”が欲しい」という物欲は生命維持のための欲求だし、僕がベッドを欲しい理由と似ているものだと思う。

結局、最低限の生活ができた上で人は自分のただの趣味としてどんな物を欲するのだろうか?

 

僕は決して人生を楽しんでいないわけではないんだけど、自分の知らない楽しいことはいくらでもあると思っていて、それには必ずしもお金がかかるわけでもない。

旅行も散歩も、数学も音楽も、映画も漫画も、なんだって楽しいと思う。

僕はたぶん“今”だけを生きることが得意で、お金があろうとなかろうとその時々で楽しめる最善手を探してきたし、他の道を選択して後悔しないような楽しみ方をしてきたずるい人間だ。だから、過去の選択のせいでできなかった未来の選択を悔んだりしないし、何年も続けていればだんだん楽しくなってくるようなことに時間とお金を投資する度胸がない。人生は人それぞれだし、結局どう頑張ってもそれなりの形で終わる気がする。(自分はやはり冷めているけれど、こういうところがとても人間らしく思ってもらえると思う。)

たぶん、普通の人はそこで自分の本能や直感とか、好みとか感情を信じて長期的な趣味に邁進できるんだと思う。

無限のお金が手に入るわけではないのと同じように、すべての楽しみが享受できる無限の時間が手に入るわけでもないんだから、必死に頑張って楽しんだってしょうがない、人生における究極の一手は存在しない、と思っているのかもしれない。

 

ゲームだったら、クッキーを作る機械をつくるためにクッキーを作ったりしていれば称号や実績が開放されるけれど、人生だったら、誰が「クリアおめでとう!」と言ってくれるんだろうか?

「欲しい物はいくらでもある」というよりも「全ての物を手に入れたい」けれど、人生において全ての物は手に入らないので別に何も要らなくなってしまった。

 

何かを強制されたり何かに束縛されたりしないと、人は何もできないのかもしれないと思うし、僕は今、どんな物よりも自由を欲しているけれど、自由を手に入れないほうが良いのかもしれない。

僕の物欲も、しぶしぶ強くしていかないとダメかも。